2025年11月22日土曜日

映画「ニューシネマパラダイス」      11回映画とおやつの会


 今月の映画は1988年に公開されたジュゼッペ・トルナトーレ監督  
 フィリップ・ノワレ、ジャック・ペラン、サルヴァトーレ・カシオ、
 プペラ・マッジオ主演のイタリアとフランスの合作映画「ニューシネ
 マパラダイス」の完全版です。主演の4人のうち子役のカシオ以外
 はフランス人俳優です。
  
 参加者7名


 今回も食べきれないくらいのおやつ。それを好きなだけお皿に取っ
 て.....


 いよいよ映画の始まりです!
 

 この映画は2時間の劇場版と3時間の完全版があり、今回見るのは完
 全版の方です。


 ある日ローマ在住の映画監督サルヴァトーレ(トト)の元に故郷の母
 親から「アルフレードが死んだ」という電話が入るところから、物語
 が始まります。それをきっかけに幼少の頃から映画に夢中になってい
 た故郷の日々を思い出していきます。
 

 子供のトトは映画が好きすぎてちょっとでも隙があるとアルフレード
 のいる映写室に潜り込もうとする。そんなトトを初めのうちは邪険に
 扱っていたアルフレードでしたが、だんだんトトの映画愛に共感し、
 彼に映写機の操作を教えたりして、2人の間に厚い信頼関係が生まれ
 てきます。


 ある日、アルフレードが営業時間外に近くの家の壁に「ヴィッジウの
 消防士」を映写していたところ、火事が発生。トトに命を救われるが
 アルフレードは失明してしまう。その後映画館は再建され、トトがア
 ルフレードの代わりに新しい映画技師としては働くことに。


 争に行ったトトの父親の戦死が知らされ葬式が行われた場面。
  後ろの建物が再建された映画館「新パラダイス座」。


 それから月日がたち青年となったトトは、自主映画制作に熱をあげる
 傍ら美少女エレナと恋に落ちるけど、色々な事情が重なり、2人は別
 れ別れになってしまう。エレナと連絡がつかなくなり、失意の底に
 沈んでいたトトはアルフレードの叱咤激励で広い世界を目指して、
 村を出て行きます。


 そしてアルフレードの葬儀に参列する為、30年振りに帰郷。
 そこで偶然エレナの娘を見かけたことで、エレナに再会。昔の行き違
 い(これにはアルフレードが関与していた)勘違いに驚きながらも愛
 を確かめた2人。それでもそれぞれ互いの道を進むことを決意。トト
 は彼女に心を残してローマに帰ります。彼女と再会する部分とアルフ
 レードが関与する場面は劇場版ではカットされています。


 最後にアルフレードが残してくれた検閲でカットされた数々の映画の
 キスシーンを見る場面です。これは子供頃のトトが欲しがったもので
 す。


 最後のこの彼の涙!これが何を表しているのか.....
 「パラダイス座」の栄枯盛衰とアルフレードとの心温かい絆を中心と
 した劇場版と、トトの人生を描くことにフォーカスしている完全版で
 この涙の意味が違ってきてしまうんです。
 前者はアルフレードとの温かい絆を思い出して過去を慈しむ涙だし、
 後者はキスシーンを見て、自分が失ってしまった愛に対する悲しみ
 と、アルフレードに対する温かい気持ちを思い出して感傷に浸る複雑
 な涙だと思いました。

 この映画の2つのバージョンについて監督のトルナトーレは
 「長編のストーリー展開の方が好みです。物語の結末でアルフレード
 というキャラクターに意外なほどダークな一面があり、短編ほど聡明
 でないところが気に入っています。またトトの人生における、仕事で
 は大きな成功を収めているものの、私生活では成功していないという
 二面性も気に入っています。
 アルフレードの導きがなければトトはあのような成功した映画監督に
 はなれなかったでしょう。それだけでなく長編のアルフレードはギリ
 シャ悲劇の重要な登場人物のように、他の人間の運命を左右する人間
 として描かれています。だから映画をカットしなければならなくなっ
 た時、まるで罠に足を取られ、囚人になる代わりに足を噛み切って生
 きることを選んだ動物のような気持ちになりました」
 と言っています。

 「人生はそんな単純なものではないのだ」と口癖のように言っていた
 アルフレッドの言葉のように、私は完全版の方を観て、より「人生の
 意味」について深く考えさせられました。
 そして切なくも美しいエンニオ・モリコーネの旋律が心に残る映画で
 した。
 
 

 

2025年11月20日木曜日

晩秋のリッチモンド公園散策        129回トランスリンクの旅

 「歩くことは人間にとって最良の薬である」とかの有名なヒポク
 ラテスも言っているように、歩くってとても大事!
 というわけで今月の旅は、自然の中を歩きながら終わりゆく秋の
 風情を楽しむ旅にしました。
  
 いつも参加してくれる人たちが殆ど日本なので、今回の参加者は
 たったの3名。


 まずはリッチモンドの中心街から車で5分の所にある公園 Garden City
 Community Garden へ。
 この公園は23、76エーカーもあり、園内にはプレーグランド、サイク
 リングコース、ノーリード・ドッグエリア、太平洋沿岸地域から集め
 られた約100種の樹木が植えられた樹木園など、特別な設備が数多く
 あります。


 園内に入るとすぐに出て来たこの景色、秋の風情があるでしょ?
 夏になるとこの水面を睡蓮の花が埋め尽くすので、また違った景色が
 楽しめるんです。


 太鼓橋の所で記念撮影です! 
 紅葉はもうほとんど終わりでしたが、落ち葉の絨毯が秋の風情を楽し
 ませてくれました。落ち葉って寒い冬や乾季のある気候で樹木が生き
 残るための進化的適応なんだそうです。落葉することで、樹木は水分
 の損失を減らせ、休眠状態に入れる。そのうえ落ち葉は土地の肥沃化
 や小動物の隠れ家や断熱材にも。長期的な炭素貯蔵にも貢献している
 のだそう。落ち葉って大事なんですね。
 

 ランチは韓国料理の「Samsoonie Noodle And Rice」で。
 3人で餃子、パジョン、石焼ビビンバをシェアー。
 この3皿、美味しい上3人では食べきれず、残りを持ち帰ったくらい
 量がありました。


 ランチの後はTerra Nova へ。ここは広さ63エーカーでTerra Nova
 Rural Park とTerra Nova Natural Area に分かれています。

 他国からの入植者が入る以前は先住民のMusqueam がここを鮭や
 チョウザメの漁場として、またクラブアップルなどの食料の採集
 地として活用していました。が1868年以降政府の奨励で入植者が
 沢山入り、ここに農場や缶詰工場などが建ち始めたんです。

Parsons House
 1900年の初め頃から1930年にかけて、日本人労働者もTerra Nava に
 多く定住しましたが、1942年に連邦政府の政策により、日本人は
 家屋を破壊され、この地域から全員追放されたのです。
 上の写真のParsons House は1888年に建てられた家で、1909年に日
 本人の漁師だったシマノさん家族が買い取りましたが、1942年に
 シマノさん家族も他の日系人と同様この地から追放の憂き目に。
 この家は現在もこの公園に保存されています。

 1980年半ばにこの土地を守ろうという取り組みが始まり、1996年の
 投票でここが公園になることが決定され、Terra Nova の自然が守ら
 れるようになったのです。
コウモリのコンドミニアム
 この公園には3000匹のコウモリを飼育出来る「コンドミニアム」が
 設置されています。コウモリって唯一飛ぶことが出来る哺乳類で、
 目が良く見えないのに真っ暗闇の中障害物にぶつかることもなく、
 飛んで餌を捕まえる事が出来るのです。暗闇の中でどうして餌を捕ま
 えられるかというと、コウモリは口や鼻から超音波を出し、跳ね帰っ
 てきた音を耳で聞いて位置を測定するんですね。このコウモリの持っ
 ているレーダーは、戦闘機のレーダーよりも優秀なんだそう。
 このレーダーを使って蚊やユスリカなどの害虫駆除に大いに役立って
 くれています。

 後ろの林は宮脇メソッドで2年前に植えられたミニ森林です。
 葉が落ちてしまったので、森林という感じはしないのですが、来年
 の春にはもっと背の高い密集した林になると思います。


 玄武岩で出来ているレイブン(ワタリガラス)と名付けられたこのべ
 ンチはThomas Carnell 作です。

 橋の所にオオアオサギが。私たちがすぐ側に来るまで平然としてい
 て、その落ち着きたるや大したものでした!

 ここでも落ち葉を踏みしめながら心ゆくまで去りゆく秋を楽しみまし
 た。
 良く歩いた後はゆっくりティータイム。歩いた歩数は13500歩。
 

 あちこちでこんな素敵な紅葉を見た楽しい散歩でした。
 「散歩には、何かしら私の思考を刺激し、活気づけるものがある」
 このジャン=ジャック・ルソーの言葉通り、歩くことによって身体
 だけでなく脳も刺激されていたら嬉しいですね。



学び満載リベリア、チャドとスーダンの国境、再度のアディスとマリ!          (朋子さんのブログから)

 アフリカの中でも非常に特異な背景を持つリベリア。アフリカで唯
 一、アメリカから帰還した解放奴隷が建国した国で、アメリカ文化
 の影響が強く、公用語は英語、国旗も米国旗に類似。12ー16世紀に
 サバンナ地帯から移住した先住民族が居住。15世紀以降、ヨーロッパ
 との交易が始まり、「胡椒地帯」と呼ばれる。19世紀初頭アメリカ植
 民地協会が解放奴隷を再移住させるため設立。1822年に最初の移住者
 が到着し、モンロビアを中心に植民地形成。1847年、アフリカ初の共
 和国として独立。首都モンロビアは米元大統領モンローに因むそう
 な。しかしアメリコ・ライベリアンが政治、経済を支配し、先住民
 を支配、差別。
 1878年〜1980年まで真正ホイッグ党による一党支配が続いたが、
 1980年に軍事クーデターで支配崩壊。1989〜2003年に民族間格差と
 権力とダイアモンド資源利権が原因で二度の内戦が発生し、約20万
 人死亡。国家は壊滅的被害。リベリアだけでなく隣国シエラレオネ
 の内戦にもダイアモンド利権を巡り介入し、数千の子どもが少年兵と
 して武装勢力に徴用され、世界的な人権問題に。その結果元大統領
 チャールズ・テーラーは世界初めて国家元首が国際法廷で戦争犯罪で
 有罪判決を受けました。

リベリア大学(University of Liberia)

 このような暗い近代史のリベリアなので恐る恐る行ってみると....プラ
 スにもマイナスにもびっくり満載。プラスとしては、暑いサヘル気候
 のセネガルから赴くと、緑あふれたサバンナ気候が快適で新鮮!また
 モンロビアは丘も多く、一際高い丘の上に西アフリカでも最も歴史が
 長いと言われる大学がありました。


 また教育省のお偉いさん達はアフリカ初の共和国としてのプライドを
 持って雄弁に語り、「さすが」と感心。ただそのプライドが邪魔して
 アフリカの他の国の例を出しても全く興味を示さないのはマイナス。


 それと教育分野においては他の国よりも非修就学児の割合が多いの
 で、原因を追求していくと何と小学校入学試験が未だに多数の学校
 で行われているそうな!また小学校は義務教育と定める一方、学費
 を払わなきゃ行けなかったりと矛盾があり、教育分野ではまだ課題
 が山積している模様。


 でも幸い、やる気に溢れた女性が教育大臣に就任して以来、「教室に
 戻ろう」キャンペーンを打ち上げて全ての子どもが教育を受けられる
 様に目標を掲げたので、私が出張に呼ばれた次第。そして一週間の最
 後の方には他の国の経験にも興味を示してくれ出したので、このまま
 やる気が結果に実現してくれるといいなー。


 リベリアの後は再度アディスアベバと再々度マリ出張を経て、先週と
 今週はチャドに長めの出張。アフリカ中央部に位置するチャドは、砂
 漠とサバンナが広がる国。その歴史は、人類の起源から現代の政治ま
 で、驚く事満載。チャドでは約700万年前の人類化石「サヘラントロ
 プス・チャデンシス」が発見されるなど、人類起源地の一つ。
 紀元前後にはチャド湖周辺でサオ文明が栄え、鉄器や陶芸文化が発
 達。
 9世紀になるとカネム王国が登場し、イスラム教を受け入れ、サハラ
 交易で繁栄。その後、ボルヌ帝国やワダイ王国などが台頭し、奴隷
 貿易やイスラム学術で中央スーダンの中心地に。19世紀末、フランス
 が進出し、チャドはフランス領赤道アフリカの一部に。第二次世界大
 戦では自由フランスを支持し、1958年に自治共和国、1960年8月11日
 に独立。しかし独立後は南北の宗教・民族対立が激化。1966年には
 反政府組織FROLINATが結成され、内戦が開始。1980年代にはリビア
 とのアオゾワ地帯紛争も勃発。1982年にイッセン・ハブレが政権を握
 り、1990年にはイドリス・デビーがクーデターで政権を奪取。
 デビ政権は30年以上続き、石油輸出で経済構造が変わるも、汚職や反
 政府活動は継続。2021年、デビが戦闘中に死亡し、以来息子マハトマ
 デビが暫定政権を率いています。


 現在は民主化への移行期にもあるそんなチャドですが、実は隣国・
 スーダンや中央アフリカからの難民を150万人近く受け入れている
 懐が深い国でもあります。結果約50万人のスーダン難民の学齢児童
 への教育支援で四苦八苦している中、最近スーダンの紛争の悪化に
 より更に12万人の難民がスーダンから逃げて来ると予想されていて
 大変そう。そこでチャド東部のスーダンとの国境近辺の難民を受け
 入れている地域に向かいました。砂漠に囲まれた滑走路も舗装され
 ていない小さな町・ファルシャナに着き近くの難民キャンプに行く
 と、見渡す限り難民が住むテントが続きます。


 その中に点在する学校ではアラブ語で学ぶ子供達が溢れていて教育意
 欲は高そう。ただスーダン難民キャンプにチャドの先生が赴任しても
 長続きしないのとスーダンとチャドではカリキュラムも違った為、結
 局スーダン人難民の先生が教えています。


 そうすると教員としてのお給料はチャド政府から出ないので、それを
 国連などが工面して来ましたが、財政がなくなった今後どうするか等
 を話し合いました。


 放課後には学校の近くでバレーボールをしていた青少年に加わり、
 40年ぶりにバレーして楽しかった〜!だけどボールを打った手が後
 で腫れちゃいましたが...。


 またスーダン国境では命からがら紛争から逃げてきた難民母娘がさめ
 ざめと泣いていました。紛争では男性は捉えられるか殺され、年頃の
 女の子は誘拐されるという話を聞いていたので、母親が私などの想像
 を絶する辛い思いをして来たのかと思うと私も涙が出て来ました。


 そんな忘れられないリベリアとチャド出張の間に、アディスアベバの
 アフリカ連合での国際会議で発表したり、


 3度目のマリ出張に行き、ガソリン危機のバマコで普段は渋滞の道路
 がガラガラな一方、ガソリンスタンドの近辺には車とバイクが1キロ
 以上の長蛇の列になっているのに心配したりして、慌ただしい数ヶ月
 です。その合間にジュリアとサーフィンのクラスを受けて、私も初め
 てちょっと波に乗れて「やった〜!」と喜んだ矢先にボートから降り
 た所にたまたまウニがいて踏んでしまい、左足がウニの棘で腫れて痛
 かった....。という訳で2025年後半も慌ただしく駆け回っている懲りな
 い私でした。


2025年10月25日土曜日

映画「ローマの休日」           第10回映画とおやつの会


 今月の映画は1953年に公開されたウイリアム・ワイラー監督、オード
 リ・ヘップバーン、グレゴリー・ペッグ主演の「ローマの休日」で
 す。

  参加者5名 

   
 皆さん、お稲荷さんやおにぎり、おはぎや果物、お菓子を沢山持って
 来てくださったので、食べきれないくらいでした。


 映画が始まるとタイトルの前にまず出て来るのがグレゴリー・ペッグ
 とオードリ・ヘップバーンの名前。オードリ・ヘップバーンはまだ無
 名の女優だったのに、すでに有名だったグレゴリー・ペッグと同等に
 扱われているのは、グレゴリー・ペッグが彼女の才能を認めて、自分
 と同じクレジット待遇にするよう要請したからだそうです。


 物語はアン王女が欧州親善の旅に出たところから始まります。


 ロンドンを皮切りに、アムステルダム、パリそしてローマに到着。
 その間の公務のスケジュールの過酷なこと。


 その過密なスケジュールに嫌気がさし、鎮静剤を打たれた状態で宿舎
 のお城を抜け出すアン王女。この宿舎の舞台になったのが、ベネチア
 広場に程近いコロンナ宮殿で、現在でもコロンナ家の人々が住んでい
 るそうです。


 鎮静剤のためセプティミウス凱旋門の石垣で寝込んでいたアン王女と
 新聞記者ジョーが初めて出会う場面。寝込んでいる王女をほっておく
 ことも出来ずに王女とも知らず家に連れ帰ります。


 翌朝目覚めた王女はジョーに1000リラ(1ドル50セント)を借りて
 美容院に行き、髪を短く切ったり(このヘアースタイル、ヘップ
 バーンカットと呼ばれ、日本でも大流行したんですよね)、


 ジェラートを買ってスペイン階段で食べたり。たった1ドル50セント
 で髪を切ったり、ジェラートが買えるのか、みんな不思議に思ってい
 た様で、幸子さんが答えを見つけてくれました。
 当時の1ドル50セントとは今のお金に換算すると約2万円くらいだそ
 う。それだけあれば大丈夫ですね。
 

 彼女がアン王女であることに気がついたジョーは、特種を掴むために
 王女のやりたい事を叶えてあげることに。


 王女は初めてスクーターを乗り回したり(これがメチャクチャな運転
 で大変だったんですけど)、カフェでコーヒーを飲んだり、初めて
 タバコを吸ってみたり。


 ジョーが王女を「真実の口」に連れて行ったシーンも有名ですね。
 この「真実の口」の中にジョーが手を突っ込むなり絶叫し、ようやく
 腕をひっぱり出したら手がない。それを見て王女が絶叫する。
 このシーンはグレゴリー・ペッグのアイディアで、ヘップバーンに知
 らせなかったそうで、悲鳴をあげて両手で顔を覆ったのは彼女の心底
 驚いた行動だったとか。
 
 この後、いろいろなことが起こって、2人は愛し合う様になるのです
 が、王女は自分の義務と国民を思い出し元の自分の場所に帰ることを
 決意。



 また元の王女に戻り、記者会見に臨むアン王女。
 そこで初めてジョーが本当は記者であることに気づくのです。

 この映画が撮られた頃のヨーロッパって、米ソの狭間にあって国同士
 の軍事対立を回避し、国際舞台に於いて政治的発言を強化する為、
 欧州統合の機運が高まって来た時だったんです。
 だから記者からの質問もそれに関したものが多かったですね。
 彼女はそういう動きに賛同を示し、「人と人との信頼関係と同じ様に
 国同士が信頼しあっていくのが大事です」と述べています。
 これはジョーに向けた言葉でもあったんですが、この言葉今の世界中
 の政治家たちにも聞かせたいですね。
 それに対してジョーは「王女様のご信頼は決して裏切られることはな
 いしよう」と答えています。
 上の写真はジョーの言葉に対する彼女の最後の言葉です。

 この映画でオードリー・ヘップバーンは有名になりますが、少女時代
 彼女はドイツでナチスが台頭して来た為、母と共にオランダに疎開。
 が、後にオランダはナチスに占領された為息を潜めて暮らし、終戦時
 には栄養失調で餓死寸前だったとか。彼女の住んでいたアーネムから
 汽車で1時間のアムステルダムの家に隠れていた同い年の少女アンネ
 フランクはナチスに捕まり、強制収容所で命を落としています。
 この二人の明暗を分けたのは、まさに紙一重の差だったようです。
 この映画の監督ウイリアム・ワイラーも、家族をナチスに連行されて
 います。

 王女と記者の単なる恋愛映画に終わらず、とても見応えのある映画だ
 ったというのがみんなの感想でした。