皆さま
チャリティーランチもこの9月をもって8年目に突入致しました。
この長い年月の間に色々な方が来てくださるようになり、参加者もビ
ックリするくらい多くなりました。
8年目にあたり、皆さまに協力していただいているこのチャリティー
ランチという会の主旨を、改めて振り返ってみたいと思います。
私はリタイアしたあと、生き甲斐のあるボランティアワークを模索し
ていました。
そんな時にミャンマーを旅行し、3箇所の孤児院を訪問する機会に恵
まれました。
ミャンマーの方々にお世話になったこともあって、何らかの形でその
孤児院を支援できたらと願うようになりましが、ただ何方に間に入っ
て頂くか、どんな形にして支援したらよいのか漠然としていて実行に
は至りませんでした。
それにミャンマーの孤児院は政府の援助や日本からの援助があるため、
とても清潔な環境で、働いている人々も明るく孤児たちも皆健康そう
でした。
一方私の若い時からの親友の姪の渋谷朋子さんがモザンビークでユニ
セフの一員として働いていることを知っていて、常々彼女のブログを
読んでいました。
朋子さんがお仕事の傍ら暇が出来ると孤児院に行ってボランティア活
動をしているのにも感心していました。
モザンビークは元々はポルトガルの植民地で、1975年にポルトガ
ルから独立したあと16年間に及ぶ内戦が続き、1992年にようや
く終結したのです。それ以降民主化が進み、経済成長も達成しました
が、人口の60%は1日の収入がUS $1、25以下(貧困ライン)の
絶対的貧困状態にあり、 2010年の一人当たりGNI(国民総所得)
は440ドル(世銀統計)と、依然として世界の最貧国の1つです。
そんな最貧国なので内戦で両親を失った子供ばかりではなく、両親が
いても育てきれず孤児院に入れられる子も沢山います。
マルコスもおばあちゃん、お父さんがいるにも係らず孤児院に入れら
れた子供でした。
孤児たちは皆学校に入学するのですが、ほとんどの子はドロップアウ
トして学業を終えることが出来ません。
その中でマルコスは頑張って専門学校まで進み、技術をものにしまし
た。その彼が子供達に自分の技術を教えたいと申し出てきたので、朋
子さんは自費でそのプロジェクトを支援することにしました。
そのいきさつをブログで読んで資金援助をなんとか出来ないかと思い、
このチャリティーランチを始めたのです。
このプロジェクトは最初孤児院の場所を借りて始め、冶金、製靴、裁
縫の3クラスが出来、チャリティーランチも800ドル送金し、ミシ
ンやいろいろな材料費に充ててもらいました。
チャリティーランチの参加者が増え寄付金が貯まるにつれ、プロジェ
クトの方も孤児院を借りることが出来なくなったので土地を購入し、
建物を建てなくてはならなくなりました。そのうえ製靴クラスの先生
が健康を害して続けられなくなったり、裁縫クラスも場所がないとい
うことで、そのミシンを孤児院に寄付しました。
そんな折このプロジェクトを監督してきた朋子さんがギニアビサウに
転勤。でもこのプロジェクトはマルコスが主導し、ユニセフのスタッ
フにもお世話になり、朋子さんもギニアビサウから監督するというこ
とで続けられることになりました。
紆余曲折があって現在は土地を確保し、教室一つとトイレが出来上が
っています。
今後製靴クラスと裁縫のクラスを復活させるため、あと二つ教室を増
設させるプロジェクトを成立させようという動きがあります。
ただマルコスが大学入学を認められ、仕事も見つけたので忙しく、な
かなか実現に至っていません。
朋子さんがギニアビサウに転勤する時に、このチャリティーランチと
してもひとつの決断を下さなければなりませんでした。
モザンビークのこのプロジェクトだけを支援し続けるのか、それとも
朋子さんと一緒に彼女が援助したいと思う人たちを支援してこの活動
を広げていくのかという二つの道です。
私は資金面で協力していくうちに彼女に絶対の信頼を持つようになり、
彼女が緊急に援助したいということがあれば文句なしに受け入れるこ
とにしました。
ギニアビサウもまたポルトガルの植民地で、1974年にポルトガル
から独立したものの、1990年代以降は内戦が勃発し、軍の反乱や
クーデターが頻発するなど不安定な政治が続き、経済的にも依然とし
て世界最貧国の一つです。
この任地で朋子さんは青空教室で300人以上の子供達を教えている
ジャシおじさんや孤児を30人育てているオリンピアおばさんに出会
ったのです。このジャシおじさんに2回、オリンピアおばさんには食
料や家の修理のお金と共に、教室を2つ、また緊急でシスターがやっ
ている孤児院にも食料援助を2回させていただきました。
その後朋子さんの尽力でジャシおじさんの学校も孤児院も政府の援助
が受けられるようになりました。
オリンピアおばさんのことが心配でしたけど、朋子さんのブルキナフ
ァソへの転任が決まり、オリンピアおばさんにもう2つ教室が出来る
ように寄付金をさしあげることにしました。
今回朋子さんがギニアビサウに行き、オリンピアおばさんのところへ
訪問してくれました。
いろいろ災害もあって新しい教室は出来ていませんでしたが、オリン
ピアおばさんはなんとかやっていっているようでした。
2、3年前モザンビークの孤児院のシスターから2人の子持ちのシン
グルマザーが結核に罹ってしまい、家もなく貧窮のどん底にあるので、
土地はシスターが用意するけど、家を建てるお金がないので援助して
欲しいという申し出が朋子さんにありました。
検査の結果子供のひとりも結核に罹っていることが分り、健康な子供
の方は孤児院に引き取られました。
シングルマザーのアデリナさんは病院から追い出されたあとは行く所
がありません。結核に罹っているので、孤児院に住むことも出来ない
状況です。もし家が出来ればアデリナさんと長女の娘さんは余生を静
かに暮らせるし、二人が亡くなったあと残された男の子には家が残る
ので将来なんとかやっていけるというのです。
また今回はアルビノの青年サヴィエルくんに家を建てて欲しいという
要請がシスターから朋子さんにありました。
ニュースにも時々出てきますが、アフリカでは公然とアルビノの人た
ちに対しての迫害と差別が繰り返されています。
それは命に危険が迫る程です。サヴィエル君はアルビノというだけで
親から見捨てられ、最初に入った孤児院でも酷い目にあったそうです。
彼はやっとシスターに救われ学校も卒業しています。それでもシスタ
ーは彼の取り巻かれている状況のひどさに彼の為に家を建てることを
考えたのでしょう。私にはその切羽詰まった状況は実感出来ませんが、
朋子さんが手を差し伸べようと決意したことから悲惨な状況を想像す
ることは出来ます。
このアデリナさんとサヴィエルくんの場合は今までのケースと違って、
個人を助けています。
複数の子供達ではなく、一人を対象とした特別な支援というので違和
感があるかもしれませんが、今彼等を助けなければ大変なことになっ
てしまうだろうという朋子さんの判断を信じて、私は積極的に支えて
あげたいと思うのです。
私達の小さな善意の種が時には学校に、時には個人に蒔かれています。
この種がどのような花を咲かせるかは分りません。
途中で枯れてしまうかもしれないし、大輪の花を咲かせてくれるかも
しれません。
どんな結果になるにしろ、種を蒔いた段階で助かる人がいます。
理想的にはひとりだけでなく大勢の子供達やアルビノの人たちを助け
てあげられたらそれが一番です。だからといってこのアデリナさんと
サヴィエルくんの救いを求める声を無視して替わりに私達に何が出来
たでしょうか?
やらない後悔よりやった後悔がいい。どんな小さなことでも今出来る
ことをやる。コツコツと一人ずつでも不運な人達の助けになればいい。
政府や大きな組織の手の届かない人たちを僅かでも救えたらどんなに
かうれしいでしょう?
今このアフリカの人たちを助ける組織が大小沢山あります。余力のあ
る方たちが自身の信念にあった組織を見つけ出して支援をしてくださ
るようになれば、それもこのチャリティーランチの小さな種が花開い
たことになると思います。
私自身は初心に戻って、朋子さんの活動の資金援助という形で縁の出
来た人達を少しでも助けられたらと思っています。
今後とも皆さまの暖かいご理解とご支援を願って止みません。
さとみ