2014年3月1日土曜日

♪優二さんの故郷「平戸」紹介

島の生活 故郷 ☆ 観光案内ではなく 自分の生まれ育った環境に対するする個人的な想いを表現したページです。


この辺りの海 広域では東シナ海であり 玄界灘ともいう 

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生月島 ikitsuki 遠洋漁業の盛んな島  生まれた島で0〜3才まで 手前が平戸島

(今回 紹介の写真は2013年1月に撮ったものがほとんど)


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生月島から 


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4才から18才まで育った平戸島の南西側を見てる 右の遠〜〜くに五島列島の北部が見える
夕景が綺麗なところ。



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教会と寺が 共存する街 (仏教とキリスト教が共存する街とも言える。)

平戸 の読みは ひらと ではなく ひらど です。 


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幸橋 元禄15年(1702年) 別名オランダ橋 平戸藩主雄香公が平戸の石工達に造らせたもので 平戸がオランダとの貿易港として栄えた頃の石造り技術を継承したもの。 この他に井戸や塀や家の壁にその当時の海外の技術で作られたものがある。



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坂道が多いコンパクトな街、、 この石畳を登ると、、、




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平戸の紹介には必ず出てくる写真スポット 教会手前の寺には実家の墓があり 帰郷の際ここも毎回訪れる。




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松浦藩の屋敷と資料館 そして 平戸らしい雰囲気のカフェがある 気に入ってる場所のひとつ。
中央にある白いカーテンのかかったとこが そのカフェ 
当時の松浦藩主になったつもりで 港の風景を眺めてみると また違った趣を感じるかも、、。



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左は 昨年 資料を元に復元された オランダ商館 




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海外貿易当時 灯台として使われた常灯の鼻 オランダ商館の前  
冬の海は透明度が高くて綺麗  少年の頃この辺りもよく泳ぎ よく釣りをした場所。



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オランダ塀と言う名前だが 、、、ボルトガルのリスボン郊外の街へ行ったとき 
上がアーチ形で全体がまったく同じ形式で作られたと思われる塀と石畳がたくさんあった。





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近くの島(大島 度島)へゆくフェリー 私が高校生のころは まだ橋がなく平戸の高校へ九州から通う学生たちは こんな感じのフェリーで毎日九州本土から通い、、、さらに遠い人だと バスに乗り 列車に乗り さらにフェリーに乗って通って来ていた。



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ウキペディアより
平戸島は遣隋使・遣唐使・遣新羅使の頃(600〜800年)から寄港地として利用され、
海外との重要な交通拠点となっていた。
平安期には「ひら」「ひらのしま」と呼ばれていて 鎌倉時代から「平戸島」と呼ぶようになった。

以下 平戸貿易 (郷土史 事典・長崎県・石田 保編より)、、
歴史をうまくまとめた文章で 資料お借りしました。m(_ _)m 

平 戸は古い時代から、倭寇あるいは松浦党本軍の有力な根拠地の一つであり、長崎県北部における政治・文化の先進地であった。そのうえ中世末期には、南蛮貿易 の中心地としてはなばなしく歴史の表舞台に登場することになる。時まさに、応仁の乱後の戦国動乱の風潮がようやく終結をむかえようとする時期にあたり、松 浦党が各地に割拠した西肥前(長崎県北部から佐賀県西部にかけての一帯)においても、平戸松浦氏を中心とする新しい秩序がつくられようとする時期であっ た。

1550(天文19)年ポルトガル船の入港から、江戸時代の寛永18年(1641)に南蛮貿易港が長崎の出島に移されるまでの90年余間、平戸港には中国・朝鮮はもとより西洋各国の貿易船があいついで入港し、その繁栄ぶりはまさに「西の都」の名にふさわしいものであった。

この平戸港が対外貿易港として栄えた背景には、明人貿易の家王直の活躍があった。

『平戸浦には大唐より五峯(王直)という者が来り年久しく居れり。是をたよりて商売の唐人が諸国から入津した。その他外国の紅毛人またはイギリス人まで来り万珍器珍物満々となり、京、堺の商人その他諸国から来り、平戸にはたぐいなく西の都と申しける。』

以 上は平戸松浦藩の古書「壷陽録」の一説であるが、王直こそが平戸港繁栄の基礎を築いた人物であることをよく物語っている。天文11年に平戸に定住した王直 の活動範囲は広く、彼の祖国中国、さらには朝鮮、南方各地におよんでいる。彼は対外貿易のみならず、国内各地の商人や大名との接触も活発であったようで、 内外の人びとの眼を肥前国平戸にむけさせた恩人といえる。

この平戸港に最初に姿をあらわした南蛮人はポルトガル人であった。天文19年、 ドワルテ・ダ・ガマがひきいるポルトガル船が平戸に入港し、平戸白狐山城城主松浦隆信とのあいだに通商交渉が成立した。また、前年に鹿児島に上陸したフラ ンシスコ・ザビエルもこの年に平戸に入り、こうして南蛮貿易が開始されるが、このことは、鉄砲伝来あるいはキリスト教伝来とともに日本の外交史上画期的な できごとであったといえよう。

しかし、ボルトガルがキリスト教布教の交換条件として貿易を行おうとしたのに対して、平戸松浦家(平戸氏) はあくまで貿易を主とするという互いの主張のちがいから、その後、平戸氏とボルトガル船とのあいだに宮前事件や福田事件などの紛争を生むこととなり、やが てポルトガル船は長崎へ去っていった。

ポルトガル船が平戸を去ったのち天正12年(1584)イスパニア船が平戸に来航するが、このイスパニア船も英西戦争の敗北により数年で平戸を去り、本格的な南蛮貿易は、さらにイスパニアののちに平戸に来航するオランダとのあいだで行われることになる。

慶 長14年(1609)2隻のオランダ船が平戸に入港し、国書を将軍徳川家康に呈して貿易の許可書である朱印状を得ている。時の平戸領主松浦鎮信は、オラン ダとの貿易を積極的にすすめるために種々の便宜を与えているが、その一つにオランダ商館設置のための用地提供があった。

オランダ商館は、慶長16年平戸の崎方の町家22軒をとりはらった跡地につくられ、元和2年(1616)に防波堤ができ、さらに同4年には商館の民家50軒を移転させ商館を拡張している。

こ うして壮大なオランダ商館が平戸崎方の波止場に完成し、以後寛永18年にオランダ商館が長崎出島に移転するまで30年間、平戸は南蛮貿易の中心地として栄 えるのである。現在、商館の跡は国指定史跡「平戸和蘭商館跡」として保護されており、周辺にはオランダ井戸、オランダ塀、灯台跡、埠頭など在時をしのぶ多 くの遺跡をのこしている。

オランダと前後してイギリスも慶長18年に平戸に来航し、イギリス商館が開設された。初代商館長リチャード・コックスは、当時徳川家康のもとで幕府の外交顧問をつとめた

ウ イリアム・アダムス(三浦按針)を平戸にまねき、オランダとの貿易に勝利を期したが、十分な効果をあげることができなかった。やがてイギリス本国の外交方 針の転換によって平戸撤退を余儀なくされ、平戸イギリス商館は文和8年閉鎖されることになる。今はわずかに、コックスが日本ではじめて移植栽培をしたと伝 えられる甘藷畑が県指定史跡として河内(平戸市河内町)にのこされ、わずかにイギリスとの関係を伝えている。

このように、平戸はポルトガル船の入港以来約一世紀のあいだ、日本最大の南蛮貿易港として繁栄しその盛名を内外に示したが、江戸幕府の鎖国政策によって貿易港としての機能を失ない、その後は肥前国松浦藩の城下町としてのたたずまいを保ちながら、現在にいたるのである。

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リチャード コックス 
400年前 この小さな港に各国の船が碇泊し まったく違った文化と衣装の人たちが 日本人に混じり街を歩いていたことを想像すると 興味深い、、、タイムトリップできるなら 当時の平戸の街へ行ってみたい気がする。


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まだまだ漁師が多い 港町なので 船具屋をよく見かける。




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街の大まかな形態は400年前の城下町の頃と同じ 町の商店の名前が書かれている。



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近所の町並み 、、、
子供のころからお世話になった駄菓子屋がそのまま健在していると レトロな気分で嬉しくなる。
 


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公園の丘を登ると こんな風景が、、、、、十字架の石塔 カトリックの人たちの墓



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いまも各地にある教会




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町からは少し離れてるが 根獅子という とっても綺麗なビーチがある海岸。地元の人たちにも人気の海水浴場。





育ち 遊んだ場所 

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少年野球の球場だった場所から 街並が見える 、、サード、レスト側にファールすると この坂を球がころげ落ちる
そ の頃の小学生にとっては 高価なボールだから 無くせない この坂を落ちて行くボールを必死に追いかける 次の坂までに追いつけなかったまず見つからな い、、 林や階段を高速で球を追いかけて降りてゆく、、、このおかげで随分 足腰と運動神経が鍛えられたようにおもう、、、悪条件は人間を強くする副産物 だ〜。 



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夏休みは ほとんど毎日泳いでた海 小舟はサザエを獲ってるようだ
小中学生の時は素潜りでサザエやタコをよく獲っていた海岸。


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流れが早い海域で 海流にのって移動し遊ぶのは楽しかったが その日の流れの読みを間違って流されると 
悲惨なことになる。 


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高校の入り口 猶興館高校 
1880年(明治13年)9月1日、旧平戸藩主松浦詮が旧藩士等の子弟教育のために「私塾猶興書院」を設立したのが始まりであり、現在の長崎県立の高等学校の中では最も歴史の古い学校で、以来2万9千人を超す卒業生を送り出している。
平戸市の中心市街地の東、平戸港を見下ろす平戸城の下に隣接するように位置している。
校名の由来は、中国の古典『孟子』巻七の尽心章句上にある。
(ウキペデイア参考)


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学校は歴史があり 古ければ良いというものではないが 自分にとっては好きな海と行き交う船が教室から見え 
眠いときには 黒板ではなく海を眺めながら空想にふけることもでき、 
裏には神社と城があり その広い敷地も当時は自由に入れ 学校帰りのいい散歩コースでもあり 
自分にとっては抜群にいい環境の高校だった。

それに 受験必修科目の担当でありながら、、『諸君! 大学へは 何々を学びたいという目的意識がなければ 行ってもなんの役にも立たないから行く価値なし、、、』 と 言いきる 硬派で豪快な一部の先生たちに巡り逢えたのも自分としては幸運なことだった。、、、

、、何事も 世間が良しとするから、周りのみんなが行くから、という選択ではなく 
その人なりにちゃんと目的意識を持てということなのでしょう。 


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小学へ通う道、、、
400年前ここには各国の帆船が並び ちょんまげや日本髪に着物姿の地元の人たちが行き交う中を
外国人がそれぞれの国の衣装で歩いていたことになる、、、そう思うとなかなか興味深い場所だ。

9月の台風の風が吹くと 当時は飛び魚(あご)の大群がこの港へ入り ジャンプした飛び魚が
風に飛ばされ道に着陸する、、、そんな様子が楽しみで毎年9月の風を待っていた、、、、
小学通学途中の遊びで この岸壁から漁船に乗り移ろうとしてランドセルのまま
2回もこの海に落ちた記憶は鮮明 (x_x;)、、

 高校の授業中は黒板よりも海を眺めていたので 当然学業の方は いまいち、いや いまサンくらい、、
しかし 受験一色ではなく 同級生と世の中の事や自分たちの夢を語り合う時間もたっぷりあり、
実に良い環境で育ったと今でも本人だけは思っている。

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食べ物編 好物

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あごだしチャンポンや ポルトガル伝来のカステラを揚げたカスドースというお菓子が名物ではあるが
自分の好物は これ、、、
スペイン語の名前が着いた アルマド 他の地方にも同じようなものがあるらしいが、、、
茹で卵を魚のすり身で巻いて 揚げたもの。 



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輪切りにすると こうなる。 祭り おくんち 正月などには欠かせない。



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昨年 高校そばの堤防へ行ったら こんな大型のイカが釣れていた俵イカ 刺身もうまいらしい。

少年のころは魚介類というと  スーパーや市場ですべて買うというイメージはなく 
大型のハマチや鯛以外は 自分たちで海に釣りに&獲りに行くそんな感じだった。 



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平戸島の南端の魚市場へ行ったら こんな魚があがっていた。


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町中にある ちいさな魚市場の食堂 個性的な味と香りの小魚どんぶり 好物の一つだが、、
生臭さが苦手な人には ちょいと厳しいかも、、。 


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この桟橋には 長距離航海をしてる国内、海外からのヨットがたまに碇泊するという。

平戸大橋ができてから 定期連絡船が廃業し 海からこの港へ入るのが難しくなったが 
この平戸へ訪れることがあったら 是非船で訪れてほしい その良さや貿易当時の風情を何倍も感じるだろう。
、、、しかし 残念ながら 現在 船で入る方法は水上タクシーでもチャーターしない限り 方法はないようだ。

平戸はコンパクトで歩ける街 
ばたばたとガイドブックに書いてある名所を数多く回るより 
地図を片手に 外国人が行き交う400年前の様子を想像し 時には立ち止まりながら 
自分の足でゆっくり歩くことをお勧めする。
いろんな国を旅して感じることですが 旅の深さや風情とは 意外にも世界遺産や名所旧跡そのものではなく 
永い歴史的背景のなか そこで暮らす人々の何気ない暮らしぶりにあったりする。

大都市からは 遠くて不便なところ、、 しかし そのおかげで変わらぬ静けさと のんびりした風情を味わうには 
とても いい島なのかもしれない。

優二さんのブログからの引用です。
 http://kazecanada.blog110.fc2.com/






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