インド洋に浮ぶ南北3Km、東西200〜300Mのサンゴ礁の小島。
モザンビークの首都マブトから北へ2000Km。
★ 10世紀頃イスラム教徒により町が築かれ,交易の拠点となる。
★1498年インドに向かうバスコダ・ガマがこの島に立ち寄ったことから
ポルトガル人の定住が始まりこの地からアフリカ大陸征服に乗り出していった。
★フランシスコ・ザビエルはこの島で季節風を待ち長崎へ。
★天正遣欧少年使節は長崎からこの島経由でローマへ。
★1750-1840年奴隷貿易で繁栄する。
★1762年ポルトガルの直轄になる。
★1869年スエズ運河建設。モザンビークを通過することなく、インドへと
ヨーロッパの往来が可能になる。
★1898年管轄権限がポルトガル植民地領モザンビークに移譲。
首都機能もロレンツォ・マルケス(マプト)に移る。
現在14000人が住んでいる。
島と本土の間には3750メートルの橋が架かり、車で行き来することができる。
二つのエリアに分かれる。
ストーン・タウン(Stone Town)
西洋とアラブの影響を受けた町並み |
島の北側はストーン・タウンと呼ばれ、ポルトガル植民地政府が最初に置かれた
エリア。市役所、警察、裁判所など主な行政機関が集中している。
アラブ
様式の建物や、ポルトガル植民地時代の歴史的建築が建ち並ぶ。
ストーン・タウンの建築は中庭やテラスを構える構造が特徴的。
マクティ・タウン(Makuti Town)
マクティとは「やしの葉」を意味する。
その名の通り、やしの茅葺屋根の住居が立ち並ぶ。
1868年に病院の以南にしか茅葺屋の住居をたててはいけ ないという布告が
出された。この法令は、入植前から島に住んでいた住民を、南部の石切り場に
追いやることを意味した。
行政機関がストーン・タウンに集中し ているのに対し、マクティ・タウンは
住居地区となっている。
ポルトガル植民地時代にマプトと同様にポルトガル人居住区と現地人居住区が
はっきりと区別され ており、当時、現地人は許可なく白人居住地に入れなかった。
モスク
マクティ・タウンの西側にたつ緑が美しいイスラム寺院。
モザンビーク島民の約9割はイスラム教。
2つの町の間に建つ病院と庭園が境界となっている
病院 General Hospital
マクティ・タウンとストーン・タウンの間に建つ大きな病院。
1681年に建設されたモザンビークで最初の病院。現在も現役。
コロニアル建築の病棟は感染を防ぐため、いくつかに分けられる工夫がされている。
中央市場 Municipal market
病院から程近い町の中心部に位置する。生活に必要なものがそろう。
商品の大半は本土から運ばれてくる。
16世紀建造されたサン・セバスティアン要塞。
1558年から約60年の年月をかけて1620年に完成。
高さ12m、幅780m。
当時のポルトガル国王ドンジョアン三世の命によって建設。
ポルトガル人建築家ミゲル・デ・アフダ(~1563)のイタリ ア・ルネッサンス
期の設計と構造には、ヨーロッパの伝統が引継がれている。
1604年から08年にかけて、オランダ軍から3度の攻撃を受けるが400台の
砲台が撃退した。
この砦はノサ・セニョラ・デ・バルアルテ礼拝堂 を取り囲むように作られている。
砦を構成する石灰岩(珊瑚石)は、島の南側のマクティ・タウンから切り出された
もので、そのためマクティ・タウンは道路から2mほど低くなった土地に広がって
いる。
窓や扉に美しい装飾が残されていたが、サイクロンの激しい雨風と植生により破滅
寸前の状態になっていた。2004年から復興事業に日本政府が約一億円の資金
協力を行い、2009年に修復が完結した。
新たに設置された貯水と下水処理システムにより、島の水を守る役目も果たしてい る。
サン・パオロ宮殿 建造は1610年で、現在は博物館。
ポルトガル領時代の面影を残すサン・アントニオ教会
南半球における現存最古のヨーロッパ建築であるといわれている
ノサ・セニョラ・デ・バルアルテ礼拝堂 (1522年)
ミゼルコリディア教会
島の主な産業は漁業と観光。
小さな帆船が島に戻ると、とれたての魚やエビを求める人々で海岸は活気づく。
食事がことのほか美味しい!
大きなロブスターが1匹
下の写真が料理されたロブスター。丸々1匹で約800円くらい
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