2015年3月23日月曜日

♪アフリカの旅 準備2♪                 ♡日本とモザンビークの歴史的接点 

 モザンビークの歴史を紐解く前に、日本とモザンビークの歴史的な接点を調べて見る
 となんと織田信長の時代に交流が……。

黒人武士「弥助」 
戦国時代、日本に到来したイエズス会員などの南蛮人たち。白人の他、黒人も描かれている。

 ★信長の家臣に「弥助」と呼ばれた黒人の武士がいて、信長の身近に仕えていた
 ということはあまり知られていない。この「弥助」について書かれた文章を
 読むと……
 
 「弥助」は天正9年(1581年)にイエズス会から派遣されてきたポルトガル宣教師
 ヴァリャニーニの従者で、モザンビーク出 身であったと伝えられている。
 年のころは26、7歳、身の丈は六尺二部(182.4cm)の壮健な黒人青年で、力は
 十人力。わず かばかりの日本語も話せたという。
 
 しかし、人々の関心をひいたのは「牛の如く」と評された肌の色。
 京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して投石が起き、重傷者が出る
 ほどであった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなか
 なか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせた。彼の肌は白くなるどころかより黒光
 りしたという。信長はこの黒人がすっかり気に入り、「弥助」と名付けて正式な
 武士の身分に取り立て、身近に置いている。
 「弥助」 はその後、信長の甲斐平定にもつき従い、信長の息子達もこの風変わりな
 褐色の肌の侍の事を気に入っていたとか。

 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際にも弥助は本能寺に宿泊しており、
 明智光秀の 襲撃に遭遇している。「弥助」は迫り来る明智の軍勢に対して戦い、
 信長が炎の中に自刃すると、本能寺を抜け出して、二条城に立てこもっていた信長
 嫡男信忠のもとに走って いる。そこでも明智軍の兵と戦い続けるが、明智軍に捕わ
 れる。光秀はこの「弥助」の処遇を決するに 当たって、「動物で何も知らず日本人で
 もない」という理由で命も取らず南蛮寺に送った。その後の「弥助」の消息は不明。」
 と書かれている。

 「弥助」が信長の為に自ら死地に赴くような危険な戦いに身を投じたのは、信長が
 弥助を厚遇し、ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという記録がイエズス会
 日本年報に書かれているように、信長の処遇に感謝したからか?
 
 NHKの大河ドラマ 「軍師官兵衛」にも出ていたそうである。

 モザンビーク島のマクティという村では、顔に白塗りをして日本の着物と発音が
 似ている「キマウ」を着て踊るお祭りがある。
 弥助が故郷のモザンビーク島に帰り、日本の文化(着物など)を故郷に伝えたのかも
 知れないという憶測がある。証拠はないけれどそうであって欲しい……。


  天正遣欧少年使節の旅路

 ★「弥助」を連れてきた宣教師ヴァリャニーニが、九州のキリシタン大名に働きかけ
 て日本人をヨーロッパに派遣することを提案。これが天正遣欧少年使節である。
 天正遣欧少年使節の4人がヨーロッパからの帰路、1586年9月に喜望峰から
 モザンビーク島に到着。ここで船に乗り換え、風向きが変わるまでモザンビーク島
 に6ヶ月間滞在している。彼らは1587年2月にゴアに向け出発し、1590年に
 帰国した。


聖フランシスコ ・ザビエル 
彼が祈りを捧げていた場所に出来た教会


 ★宣教師フランシスコ・ザビエルも1541~1542年、日本への道中、
 モザンビーク島に6ヶ月滞在した。彼が毎日祈りを捧げていた石のある場所には、
 現在ザビエル礼拝堂が建てられている。

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