モザンビーク一帯は人類史の中でも古くから人類が居住してきた歴史があり、
およそ300万年前から人類が居住していたとされる。紀元前後に住んでいたのが、
ブッシュマンという名で知られていたサン人。彼らはバントゥー系の人々や白人の
進出により激減し、現在はカラハリ砂漠に残っているだけである。
近年の遺伝子の解析では人類の祖先と目されている。
10世紀ごろバントゥー語系のジンバ人、トンガ人、セナ人が北西より移住してきた。
14世紀にはカランガ人のモノモタパ王国が、現在のモ ザンビークとジンバブエに
またがる一大版図を支配した。王国はインド洋を通してアジアと長距離交易を行い、
16世紀に最盛期を迎えた。この王国の跡は、現 在ジンバブエ南部にジンバブエ遺跡
として大石造建造物が残っている。
一方、海岸部では7世紀ころよりアラブ人がソファラ、モザンビークを中心に交易
都市を 建設していた。
1498年にポルトガル人の ヴァスコ ・ダ・ガマが インドに行く途中に来航。
それを切っ掛けにポルトガル人がやってきて、アラブの自由交易都市は駆逐された。
ポルトガル人は当初は布教活動に努めたが、16世紀中葉に来航したポルトガル軍は
モノモタパ王国を滅ぼした。
17世紀に入ってポルトガル人の入植が進み、大地主(プラゼイロ)が強制労働に
よって多くのアフリカ人を使い、プランテーション 農業を営む大土地所有制度
(プラゾ制度)が発達した。18世紀は奴隷狩りの最盛時で、ケリマネ港から多くの
奴隷がおもにブラジルに輸出された。
アフリカ分 割を決めた1884~85年のベルリン会議によってモザンビークはポルトガル
領東アフリカとなったが、1890年ローデシア(現ジンバブエ)に入植した イギリス
南アフリカ特許会社との間に国境をめぐる争いが続いた。
さらに1886年トランスバール(南アフリカ共和国)で金の富鉱が発見されると、海
への最短 ルートとしてのロレンソ・マルケス(現マプート)港の重要性が高まり、
港と金鉱地帯を結ぶ鉄道が建設された。
1930年ポルトガルのサラザールが海外問題 相になると、本国と植民地の関係は一層
緊密化し、本国からの移住者が急増した。
51年には植民地は海外州と改称され、本国経済の一環に組み込まれた。
モザンビークでは本国向けのサトウキビ、サイザル麻、コプラ(ココヤシの果実の
胚乳を乾燥したもの)などの農産物が栽培され輸出された。
およそ300万年前から人類が居住していたとされる。紀元前後に住んでいたのが、
ブッシュマンという名で知られていたサン人。彼らはバントゥー系の人々や白人の
進出により激減し、現在はカラハリ砂漠に残っているだけである。
近年の遺伝子の解析では人類の祖先と目されている。
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ジンバブエ遺跡 |
10世紀ごろバントゥー語系のジンバ人、トンガ人、セナ人が北西より移住してきた。
14世紀にはカランガ人のモノモタパ王国が、現在のモ ザンビークとジンバブエに
またがる一大版図を支配した。王国はインド洋を通してアジアと長距離交易を行い、
16世紀に最盛期を迎えた。この王国の跡は、現 在ジンバブエ南部にジンバブエ遺跡
として大石造建造物が残っている。
一方、海岸部では7世紀ころよりアラブ人がソファラ、モザンビークを中心に交易
都市を 建設していた。
1498年にポルトガル人の ヴァスコ ・ダ・ガマが インドに行く途中に来航。
それを切っ掛けにポルトガル人がやってきて、アラブの自由交易都市は駆逐された。
ポルトガル人は当初は布教活動に努めたが、16世紀中葉に来航したポルトガル軍は
モノモタパ王国を滅ぼした。
17世紀に入ってポルトガル人の入植が進み、大地主(プラゼイロ)が強制労働に
よって多くのアフリカ人を使い、プランテーション 農業を営む大土地所有制度
(プラゾ制度)が発達した。18世紀は奴隷狩りの最盛時で、ケリマネ港から多くの
奴隷がおもにブラジルに輸出された。
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ケリマネにバスコ・ダ・ガマが最初に来航。この港から多くの奴隷が主にブラジルに輸出された |
アフリカ分 割を決めた1884~85年のベルリン会議によってモザンビークはポルトガル
領東アフリカとなったが、1890年ローデシア(現ジンバブエ)に入植した イギリス
南アフリカ特許会社との間に国境をめぐる争いが続いた。
さらに1886年トランスバール(南アフリカ共和国)で金の富鉱が発見されると、海
への最短 ルートとしてのロレンソ・マルケス(現マプート)港の重要性が高まり、
港と金鉱地帯を結ぶ鉄道が建設された。
1930年ポルトガルのサラザールが海外問題 相になると、本国と植民地の関係は一層
緊密化し、本国からの移住者が急増した。
51年には植民地は海外州と改称され、本国経済の一環に組み込まれた。
モザンビークでは本国向けのサトウキビ、サイザル麻、コプラ(ココヤシの果実の
胚乳を乾燥したもの)などの農産物が栽培され輸出された。
ポルトガルの植民地支配の要(かなめ)は徴税と強制労働にあり、これに対しアフリカ人
の反抗が各地で起こった。1962年アフリカ人の民族組織であるモザンビーク解放戦線(FRELIMO(フレリモ))
がE・モンドラーネによって結成され、64年9月武力解放闘争を
宣言しゲリラ闘争が開始された。
タンザニアを基地として南下したフレリモは翌年全国土の約
20%を解放し、70年には
ソ連、中国の援助を受けてザンベジ川の南まで達した。この間1969年2月モンドラーネ
は暗殺され、フレリモの指導権はS・
マシェルに移された。
74年4月ポルトガルに軍事クーデターが起こりファシズム政権が倒されると、新政権
によって海外州の解放が宣言された。74年9月の
ルサカ協定によって戦闘停止、
暫定政府樹立が決められ、75年6月25日モザンビークは独立を達成した。
(日本大百科全書より参照)
(日本大百科全書より参照)
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