2015年3月25日水曜日

♪アフリカの旅 準備3♪                 ♡モザンビークの歴史   

 モザンビーク一帯は人類史の中でも古くから人類が居住してきた歴史があり、
 およそ300万年前から人類が居住していたとされる。紀元前後に住んでいたのが、
 ブッシュマンという名で知られていたサン人。彼らはバントゥー系の人々や白人の
 進出により激減し、現在はカラハリ砂漠に残っているだけである。
 近年の遺伝子の解析では人類の祖先と目されている。


ジンバブエ遺跡


 10世紀ごろバントゥー語系のジンバ人、トンガ人、セナ人が北西より移住してきた。
 14世紀にはカランガ人のモノモタパ王国が、現在のモ ザンビークとジンバブエに
 またがる一大版図を支配した。王国はインド洋を通してアジアと長距離交易を行い、
 16世紀に最盛期を迎えた。この王国の跡は、現 在ジンバブエ南部にジンバブエ遺跡
 として大石造建造物が残っている。
 一方、海岸部では7世紀ころよりアラブ人がソファラ、モザンビークを中心に交易
 都市を 建設していた。

 1498年にポルトガル人の ヴァスコ ・ダ・ガマが インドに行く途中に来航。
 それを切っ掛けにポルトガル人がやってきて、アラブの自由交易都市は駆逐された。
 ポルトガル人は当初は布教活動に努めたが、16世紀中葉に来航したポルトガル軍は
 モノモタパ王国を滅ぼした。
 
 17世紀に入ってポルトガル人の入植が進み、大地主(プラゼイロ)が強制労働に
 よって多くのアフリカ人を使い、プランテーション 農業を営む大土地所有制度
 (プラゾ制度)が発達した。18世紀は奴隷狩りの最盛時で、ケリマネ港から多くの
 奴隷がおもにブラジルに輸出された。

ケリマネにバスコ・ダ・ガマが最初に来航。この港から多くの奴隷が主にブラジルに輸出された


 アフリカ分 割を決めた1884~85年のベルリン会議によってモザンビークはポルトガル
 領東アフリカとなったが、1890年ローデシア(現ジンバブエ)に入植した イギリス
 南アフリカ特許会社との間に国境をめぐる争いが続いた。
 
 さらに1886年トランスバール(南アフリカ共和国)で金の富鉱が発見されると、海
 への最短 ルートとしてのロレンソ・マルケス(現マプート)港の重要性が高まり、
 港と金鉱地帯を結ぶ鉄道が建設された。
 1930年ポルトガルのサラザールが海外問題 相になると、本国と植民地の関係は一層
 緊密化し、本国からの移住者が急増した。
 
 51年には植民地は海外州と改称され、本国経済の一環に組み込まれた。
 モザンビークでは本国向けのサトウキビ、サイザル麻、コプラ(ココヤシの果実の
 胚乳を乾燥したもの)などの農産物が栽培され輸出された。
 
 ポルトガルの植民地支配の要(かなめ)は徴税と強制労働にあり、これに対しアフリカ人
 の反抗が各地で起こった。1962年アフリカ人の民族組織であるモザンビーク解放戦線(FRELIMO(フレリモ)) がE・モンドラーネによって結成され、64年9月武力解放闘争を
 宣言しゲリラ闘争が開始された。
 タンザニアを基地として南下したフレリモは翌年全国土の約 20%を解放し、70年には
 ソ連、中国の援助を受けてザンベジ川の南まで達した。この間1969年2月モンドラーネ
 は暗殺され、フレリモの指導権はS・ マシェルに移された。
 74年4月ポルトガルに軍事クーデターが起こりファシズム政権が倒されると、新政権
 によって海外州の解放が宣言された。74年9月の ルサカ協定によって戦闘停止、
 暫定政府樹立が決められ、75年6月25日モザンビークは独立を達成した。
  (日本大百科全書より参照)

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